母は元々精神的に不安定なところがあり、私が幼いころから精神科に通い詰め、日々多量の薬(向精神薬など)を飲んで生活していた。
母が多量の薬を飲むことは、私にとって日常であったし、妹が生まれる以前は一人で留守番をすることも多かったから、カウンセリングなどにも通っていたんだろうなと思う。
幼稚園の頃
普段は幼稚園に通っていたため、気にしたことさえなかったが、母と一緒に遊んだ記憶はほとんどない。
ただ、幼稚園から帰ってきて、カセットテープの「天国からの手紙」を母の背中越しに見ていた記憶はある。その番組で何故か覚えているのは、娘を自分の車で誤って轢いてしまった母親が、江原啓之を介して娘からのメッセージを聞くというような回である。幼心ながら「自分が死んだら誰が悲しんでくれるのだろう」などと考え、あんまり思いつかないや。とニヒルを味わっていた。
父は営業の仕事をしていたためか、朝早くに出勤し、飲み会を経て夜な夜な帰宅するという生活をしており、休日はマッサージに行くといい、家にいる時間は少なかったと思う。母はいつもそんな父親に対し「毎日どんちゃんばっかりして!」と文句を言い、父は「遊んでいるんじゃない、仕事なんだから仕方がない」と毎度のように言い訳していた。昔ながらのごく普通の家庭だったと思う。
幼稚園の送迎ももちろん母親だったし、共に過ごす時間は圧倒的に母のほうが多かったはずなのに、母よりも父のほうが一緒に遊んでくれたという記憶がある。不思議だ。
そんなこんなで、父母に愛着も執着もない環境で過ごしていたためか、幼稚園で「水色とピンクどっちが好き?」のあとの「パパとママどっちが好き?」にはうまく答えられなかったのをよく覚えている。こんなにはっきりと覚えているのは自分にとって衝撃だったのだろう。
みんな、パパが好きとかママが好きとか両方好きとか、本気で言ってんのか?と思った。
「好き」がわからなかったわけではない。いっちょまえに幼稚園の同じクラスの男の子に「おとなになったらけっこんしようね」などど手紙を書き、相手のカバンの中に忍ばせてみるなどしていた。
その「すき」と親が「好き」は自分の中でどうしても結びつかず、「うーん、みんなママならママかなぁ」などと適当に答えてやり過ごし、なんなく「たまごっちの色何色?」という質問を迎えることができていた。
小学生の頃
小学校に就学してからは、友達と過ごす時間が圧倒的に増えた。
夕方のチャイムが鳴ったら帰りましょう、を適度に無視してある程度遅くまで近くの公園や友達の家で遊んでいた。
公園でブランコに乗っている際に「女の子はいいなあ、ここかゆくならないんだもんね。自転車に乗るのも楽でしょう?痛くないんだもんねえ」などと言われながら性器を露出されるという明らかに怪しい状況に遭遇しても「親に言わなきゃ」などという考えも浮かばず、友達の保護者から電話(当時は当たり前にクラス全員の家の電話番号が載った連絡網があった)から発覚し、なぜ言わないのだなどど問い詰められたこともあった。
亥年になる前の年の暮れだった。急に母親がリビングのシャッターを開け外に向かって叫びだした。「亥年には何かが起こる!ここにいては危険だ!」年末の特番を見る横目で、父に両腕を抑えられている母の姿を見て、当時の自分の語彙では表現しえない感情を抱いたように思う。
料理は得意な母であったから、次の日には当たり前のように手作りのおせち料理や鯛が並んでいた。
そのころには妹も生まれていたから、兄妹と過ごす時間が長く、母に対して良くも悪くも何の感情も抱いていなかった。
続く


コメント